敬老の日に私が笑ってしまう理由
季節外れだが、敬老の日の話から私はこのブログを始めたい。
ブログの趣旨は人それぞれだと思うが、私は私がその時考えている事、これまで考えてきた事を載せていこうと思う。
特に違和感を感じている事や強く思っている事はその優先順位が高いと言える。
本題に戻る。
唐突だが、私はどうしても敬老の日には「フッ」と笑いがこぼれてしまうのだ。
多分皆さんそんな経験は無いと思う。
愛してやまない祖父母を思い自然と笑みがこぼれたという話でもない。
私は「敬老の日」そのものが抱える語義矛盾的なものに笑いを禁じ得ないのだ。
「敬老の日」というからには敬うべき老人が当然いるはずである。
私には敬うべき老人などいないように思える。
敬うべき老人などいないのに老人を敬えと国が言うとはこれ如何に。
誠実で優しい読者の方であればこう言うかもしれない。
「自分の祖父母は少なくとも敬えるだろう」と。
だが、よく考えて欲しい。
国が祝日と定めるにあたっては当然マクロの世の中全体を考えなければならない。
もしかしたら読者の方々の祖父母はとてつもない人格者だったかもしれないし、偉大なビジネスパーソンだったかもしれない。
だが、それは枝葉の話に過ぎない。
あくまで今の、もしくは先に亡くなった先賢()とやらが何を全体として何をしてきたか、どういう社会を築いてきたかというマクロ視点での結果が大切なのだ。
今もあるか分からないが政府のホームページに貼ってある記事の中に年金格差に対する理解を求めるものがあった。
記事の内容を要約すると、「老人の皆様は今より貧しい時代に生まれ、苦労をされてこられました。ですから若者の皆さんは多少税金が高かろうが、損をしようが老人の皆様の為に我慢しなくてはなりませんよ。」という有難いお説教であった。
私は経済に明るくないが、今の老人世代は非常に金銭的には豊かである。
そもそも戦後日本の経済成長は状況において朝鮮特需、為替、国家間経済差、人口の多さ等があり必然的であったし、今の増税しか頭にないご老人の方々とは違い池田隼人らまともな経済を推進できるインテリジェンスのある人々がいた。
今のろくでもない没落と苦しみの日本社会を作り上げたのは今を生きる老人の皆様だ。どこに我々が甘んじて苦を受け入れなければならない恩があるのか理解不能だ。
そも若者、いや他者に対するリスペクトがご高齢の方々(場合によっては氷河期、バブル世代も含め)にはあまりに欠けている。
威張り散らすことをそれは伝統であるとごまかしているが、古き良き()日本の共同体などもうこの国に存在しない。
自由経済、自由恋愛の時代である。老人が言っている伝統とやらは自分たちに都合のいい他者にリストペクトを持たなくていい事に寛容な社会であって当然許容できない。
大体、共同体としての面倒見、公平を捨て、碌に伝統を守ってこなかった癖に伝統の名のもとに威張るとは愚物としか言いようがない。
では、伝統ではなく、リベラル的に老人が正しくいきてきたかというとそれもNOである。
前述のとおり他者にリスペクトがなく、議論は国会を見てもらえばわかるが喧嘩と同義、会社ではセクハラ・パワハラが横行し、精神疾病を抱えたり、自殺する人間が後を絶たない。一例ではあるがこれらをみんなやってる事だから良しとし、自浄作用のかけらもないという市民リテラシーの低さ。
老人だけのせいではないかもしれないが、こうした構造を構成・放置してきたのは老人達である。
某社会学者に言わせれば老人の集団自害が唯一の解決策らしいが、私はそこまでは思わないにしろせめてもう少し謙虚になったらどうかと思っている。
まずは敬老の日を自ら率先して改名する事から始めたらどうかと考える。