第二の青葉真司を生み出さない為に
青葉真司がやった事に関して善悪を論じても仕方がないと俺は思うんだけど、Xの連中は善悪を語るのが好きなんだよね。
なんというか、若いのかなぁXのユーザーは。正義警察みたいなのも多いじゃん?
言い争いにしかなってなくて本当に不毛な連中。
それよりもこういう事件の背景と再発防止に考えをめぐらせる事が大切だと思う。
青葉の父親は女にだらしなくDVを繰り返す屑だし、母親は無関係だと言い張り、真司氏を放置し、生きてきた。
まあ、そりゃそうなるわな(真司氏がゆがむ)と思ってしまう。
おそらく青葉の父親は攻撃性の高い発達障害ASDだろうし、母親も発達なのだろう。
事実としてASDは遺伝する。
昔の社会にもこういう屑はいっぱいいた。爺共を見ていれば異常に威張ったり、キレ散らかすゴミが多い。
昔はこういうゴミ共が浄化されずにのうのうとそういう性格だからと許されてきた(許せという圧力があった)。その結果家族が非常に不愉快な目に遭い、子にも遺伝する。
バブル世代ぐらいまでは許された風潮だが今は違う。
きちんと障害として扱われ社会で障碍者として生きていくことを奨励されている。
青葉真司や今の若者は上のゴミ共には性格だから許容しろと威張られてきたが、自身がキレ散らかす等の社会不適応行動を取ることは許されていない。
やられてきたのに自分らは何もできない。我慢しろという訳だ。
それで我慢してきたものが爆発したんだろうね。
まあ、人間てのはいろんな意味で碌なもんじゃないんだよね。
この一言につきるかな。
今の時代というのは障害は障害と言い切って福祉に早くからつながるべき時代なんだよね。
所謂、「狭間の世代」にあたる青葉真司や今の二十台後半から三十代ぐらいの発達障害持ちの人たちは謂わば犠牲になった世代だね。
まあ、自分含めこの年代の弱者は高齢者にも敬意は欠片も払う義理は無いし、所謂世間の弱者利権にも懐疑的なんだよね。自分が弱者として辛酸舐めさせられてきたのにそこに自分がカウントされてないから。
日本人であっても反日だったり無敵の人が多い世代だと思うな。
会社の忘年会・新年会という村掟(呪縛)
世間では年末には忘年会、年始には新年会というのが一般的な出来事としてある。
特に企業において行われる事が多いのではないだろうか。
自分はこれらの行事に参加する意義を見出せない(あったとしてメリットが小さい)し、何よりその意欲がない。
自分は酒が全く飲めないというのに参加しろと上司は言ってくる。無論断ったが日本人は酒の席の事となると様々な意味で不躾になるのはなんなのだろうか。
第一に、飲めないと言っている人間を飲みの場に強引に誘う行為自体が他者に対するリスペクトが足りない。上司は親睦の場という意味合いがあるからと言うがそれならば酒は必要がないし、酒が飲めない人間とも本当に仲良くなりたいという思いをそこには感じられない。本当に仲良くなりたいのなら業務時間内に酒を伴わないレクリエーションをやるでもいいはずだ。
酒の場ともなれば不躾な質問や会話、行為をしてくるかやらせてくる輩も出てくる。場合によっては会社自体がそれらを推奨して催し物(強制参加の一発芸大会等)としてやる。
私はそういう空間に価値を感じないし、時間の消耗でしかないと思ってしまう。
第二に飲める飲めない以前にわざわざ時間を使って業務時間外に会社の人間と交友する意義を感じないし、そういう場に誘ってくる距離感が不快だ。
飲み会は終業後に行くことになるが、ただでさえブラック企業で早出したり残業したりが多い会社だ。業務内で休憩が取れない(私は労働者の権利として何が何でも取ろうと心がけているが)場合もある。当然業務内容も社員を限界までこき使うようなものであるし、現場の人間に対するリスペクトは皆無である。上司、特に上の方になればなるほど現場に対する物言いは普段から極めて無礼だ。
末端をこき使えば費用が浮くだろうと考え大量の業務を押し付け(しかも非合理)普段なら高圧的な上司がいきなりその日だけ「仲良くなろうぜ!」「俺たち仲間だろ!」「絶対来いよ!」と距離詰めてくる。
正直「気色が悪い」のである。
同僚、先輩、後輩にしてもそうだ。普段から「死ぬほど」長時間勤務で顔を合わせているのだからもういいだろうと思ってしまう。また、概してこういう会社の飲み会というのはイコール仕事の話になってしまうものだ。なぜ、ブラック労働に加えて労働談義などしなくてはならないのか。参加しろというのなら飲み会手当として時間に応じて給料を支払って欲しいぐらいだ。
第三に日本人は仲良くなるイコール業績が良くなると勘違いをしていないだろうか。
そこを履き間違えている人間が多いように感じる。
また、それ以前の話として、業績関係なく、仲良くなるだけが目的で飲み会をやろうとしている人間はアホだし、論外だ。(悲しいかなこの論外のアホが大半なのだが)
いい年こいた大人になってまで誰かとそこまでしてなぜ仲良くなりたいのか?
勿論、ビジネスの関係だけでなくそれ以外の場面でも仲良くなれたらそれはそれで価値のある事かもしれない。しかし、そも我々はビジネス(金を稼ぐ)の為に職場に来ているのであってその事を第一に考えるべきである。プライベートの場で使いたい時間やエネルギーもあるだろう。
ビジネスの合理性関係なく仲良くなりたいからという理由だけで会社の名を借り人の時間、エネルギーを削る事は恥だと心得るべきだ。
また、場合によっては仲良くなることがイコール会社の業績アップに繋がると妄信している人間もいる。
これもどうかと思う。
世の中(世界)の特にベンチャーと呼ばれる企業の中には社員の間柄が決して良いと言い切れないものもある。だが、社員一人一人が曲者で熱意があり、馬力があるから成功する企業も多い。
日本は真逆とも言える状況ではないだろうか。
日本は社会そのものが巨大な村社会の延長だ。
他者に変に関心が強く、他者に異常に均一性を求める。
村掟の呪縛から日本人が解放される日は来るのだろうか。
敬老の日に私が笑ってしまう理由
季節外れだが、敬老の日の話から私はこのブログを始めたい。
ブログの趣旨は人それぞれだと思うが、私は私がその時考えている事、これまで考えてきた事を載せていこうと思う。
特に違和感を感じている事や強く思っている事はその優先順位が高いと言える。
本題に戻る。
唐突だが、私はどうしても敬老の日には「フッ」と笑いがこぼれてしまうのだ。
多分皆さんそんな経験は無いと思う。
愛してやまない祖父母を思い自然と笑みがこぼれたという話でもない。
私は「敬老の日」そのものが抱える語義矛盾的なものに笑いを禁じ得ないのだ。
「敬老の日」というからには敬うべき老人が当然いるはずである。
私には敬うべき老人などいないように思える。
敬うべき老人などいないのに老人を敬えと国が言うとはこれ如何に。
誠実で優しい読者の方であればこう言うかもしれない。
「自分の祖父母は少なくとも敬えるだろう」と。
だが、よく考えて欲しい。
国が祝日と定めるにあたっては当然マクロの世の中全体を考えなければならない。
もしかしたら読者の方々の祖父母はとてつもない人格者だったかもしれないし、偉大なビジネスパーソンだったかもしれない。
だが、それは枝葉の話に過ぎない。
あくまで今の、もしくは先に亡くなった先賢()とやらが何を全体として何をしてきたか、どういう社会を築いてきたかというマクロ視点での結果が大切なのだ。
今もあるか分からないが政府のホームページに貼ってある記事の中に年金格差に対する理解を求めるものがあった。
記事の内容を要約すると、「老人の皆様は今より貧しい時代に生まれ、苦労をされてこられました。ですから若者の皆さんは多少税金が高かろうが、損をしようが老人の皆様の為に我慢しなくてはなりませんよ。」という有難いお説教であった。
私は経済に明るくないが、今の老人世代は非常に金銭的には豊かである。
そもそも戦後日本の経済成長は状況において朝鮮特需、為替、国家間経済差、人口の多さ等があり必然的であったし、今の増税しか頭にないご老人の方々とは違い池田隼人らまともな経済を推進できるインテリジェンスのある人々がいた。
今のろくでもない没落と苦しみの日本社会を作り上げたのは今を生きる老人の皆様だ。どこに我々が甘んじて苦を受け入れなければならない恩があるのか理解不能だ。
そも若者、いや他者に対するリスペクトがご高齢の方々(場合によっては氷河期、バブル世代も含め)にはあまりに欠けている。
威張り散らすことをそれは伝統であるとごまかしているが、古き良き()日本の共同体などもうこの国に存在しない。
自由経済、自由恋愛の時代である。老人が言っている伝統とやらは自分たちに都合のいい他者にリストペクトを持たなくていい事に寛容な社会であって当然許容できない。
大体、共同体としての面倒見、公平を捨て、碌に伝統を守ってこなかった癖に伝統の名のもとに威張るとは愚物としか言いようがない。
では、伝統ではなく、リベラル的に老人が正しくいきてきたかというとそれもNOである。
前述のとおり他者にリスペクトがなく、議論は国会を見てもらえばわかるが喧嘩と同義、会社ではセクハラ・パワハラが横行し、精神疾病を抱えたり、自殺する人間が後を絶たない。一例ではあるがこれらをみんなやってる事だから良しとし、自浄作用のかけらもないという市民リテラシーの低さ。
老人だけのせいではないかもしれないが、こうした構造を構成・放置してきたのは老人達である。
某社会学者に言わせれば老人の集団自害が唯一の解決策らしいが、私はそこまでは思わないにしろせめてもう少し謙虚になったらどうかと思っている。
まずは敬老の日を自ら率先して改名する事から始めたらどうかと考える。